“障害”という言葉が、人生を変えた。僕たち家族の始まり

この記事を書いた人:ユウキパパ

会社員として20年働きながら、思い切って1年の育児休業を取得。「お金・働き方・人生をどう選ぶか」を考え、本気で未来を変えていくと決めました。

このブログでは、男性育休のリアル、障害児育児、夢を追いかける過程・家族との毎日の気づきを発信しています

目次

育児は順調だと思っていた、あの日までは

健康にさえ生まれてくれたら、それだけで──そう思っていた

「元気に生まれてきてくれたら、それだけでいいよね」

妊娠中、妻と何度もそんな話をしていました。

はじめての子ども。はじめての育児。希望と不安のなかで、それでも僕たちは未来を信じていたんです。

そして生まれてきた息子は、少しおとなしい子でしたが、医師からは「問題ありませんよ」と言われていました。

だから僕たちは、「この子は健康だ」と信じていたんです。

ずっと、ずっと──


「少し遅いだけ」との思い込み

でも、振り返ると、いくつかの違和感は確かにありました。

  • はいはいをしない
  • 笑わない
  • 目が合いにくい

とくに生後5ヶ月を過ぎたころから、息子はほとんど笑わなくなっていたんです。

それでも、「個人差があるよ」「初めての育児なんだから、焦らなくていいよ」──そんな言葉に、僕たちは救われたような気になっていました。


見逃していたサイン──“点頭てんかん”という異変

今だから分かるんです。

あのとき、すでに点頭てんかん、別名「ウエスト症候群」は進行していました。

特に「点頭てんかん」の発作は分かりにくく、まさか病気とは思えませんでした。

微妙な首の動きや、ピクッとした反応。

「赤ちゃんだから、そんなこともあるよね」

そう思い込んでいたんです。


9ヶ月、旅行先の横浜で見た息子の姿

9ヶ月のころ、家族で横浜に旅行に行きました。

中華街も行って、横浜港を見学。

でもその時の息子は、ベビーカーの上でただ静かにしているだけ。

「本当に大人しくて手がかからない子だなぁ。」

「これからできることが増えてくるといいね。」

そんなふうに、呑気に夫婦でお互いに言い合っていました。

──それが“現実逃避”だったことに気づくのは、旅行から帰ってしばらくのことでした。


「難病かもしれない」と思った時

10ヶ月、突然の言葉「点頭てんかんかもしれないよ」

ある日の夜、妻の母が息子の様子を見て、ぽつりと言いました。

「この子、点頭てんかんかもしれないよ」

「てんかんかぁ」と軽く受け流して、ソファで座りながら、スマホで調べてみたんです。

「てんとう…てんかん?」聞き慣れない言葉に、正直ピンとこなかった。

そのとき、目に飛び込んできた文字が忘れられません。

「重大な障害が残ることがある」

その瞬間、背筋がすっと凍った。

「点頭てんかん」

「赤ちゃん ピクつく」

「障害 赤ちゃん 笑わない」

動画も見た。症状の映像を何本か見て、目を疑った。

「あれ…これ、うちの子と似てる…」


「指定難病」「重大な障害が残る」という文字

初めて見るその病名。

調べて、その横には強烈な言葉が並んでいた。

「早期に治療を開始しないと、重大な後遺症が残る可能性がある

「難治性のてんかん。知的障害、運動障害を伴うことが多い」

何度も読み返しても、文章の意味が変わってくれることはなかった。

頭の中がぐるぐるした。「まさかうちの子が…」「いや、違うはず」

でも、一方で思いあたる節もあった。

笑顔を見なくなった息子。

成長の遅さも、「ちょっとのんびり屋なのかな」なんて思っていた。

みんな「初めての育児ならそんなもんよ」って言ってた。

それを信じたかった。

「念のため」と言い聞かせて、明日にでも病院に連れて行ってもらうように妻に頼んだ。

子が難病になった日

妻と両親が連れて行った病院、僕は仕事中だった

翌日、僕は仕事が入っていたため、妻と両親にお願いして病院へ連れて行ってもらいました。

「きっと何でもない。」そう確認してほしい。

そう願いながら、職場で仕事をしていると、妻からLINEが入りました。

「点頭てんかんだって」

頭の中が、真っ白になりました。

本当に、音が消えるような感覚。仕事のことなんてまったく頭に入らなかった。


周囲の「良かった探し」が心に刺さった

病院では、専門医がすぐに異変を見抜き、大病院に紹介状を出してくれたとのことでした。

妻も両親も、「早く診断がついてよかった」「良い担当の先生に出会えてよかった」と口をそろえて言っていました。

きっと、必死で前向きになろうとしていたんだと思います。

でも、僕の心の中には、こんな言葉が渦巻いていました。

「なにが“良かったんだよ」

そう言ってしまったんです。

今思えば、妻の気持ちを思いやれなかった。

でも、それだけ自分も現実を受け止めきれなかった。


後悔と自責、それでも父として歩き出すまで

「一生、介護する人生が始まるのか」

その日から、僕の中には重くのしかかる現実がありました。

  • 仕事とどう両立するのか
  • 息子の将来はどうなるのか
  • 妻との生活はどうなるのか
  • 自分の人生はどうなるのか

「普通の人生」から、急に線路が切り替わったような感覚でした。


それでも、前に進むしかなかった

それからの数ヶ月は、気持ちの整理がつかないまま、診察・検査・療育相談…と動き続ける日々でした。

忙しくやることがあって、現実について深く考えられていなかったと思います。

でも、息子のことを「守ってあげたい」という気持ちは、確かにそこにありました。

今、時間はかかったけれど、僕も「障害のある子の父親」になっていく覚悟を持てるようになってきています。


今、もし同じ状況にいる誰かへ

障害があると診断されたとき、父親として何を感じてもいいと思います。

混乱してもいいし、逃げたくなっても、情けなくてもいい。

僕もそうだったから。

でも、少しずつでいい。

情報を集めて、誰かに話して、目の前の子どもと向き合う時間を重ねていく。

それが、父親になるということなんだと、今は思います。


おわりに

息子の病気に気づけなかったこと、早く病院に連れて行けなかったこと。

悔しさも後悔も、今でもあります。

でも、あのとき感じたことを言葉にすることで、

「過去の自分のように悩んでいるお父さん」に届いてほしいと、そう思っています。

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